不登校児は「学校に来たら元気」なのか?

2019年07月13日土曜日

タイトルの言葉、スクールカウンセラーをしている人なら聞いたことがあると思います。
学校に来るまでが大変だけど「来たら元気そうに、楽しそうにしてます」という不登校児への評価。
普通に考えてそんなはずがないじゃないですか。

物理学の世界に「静摩擦」と「動摩擦」という言葉があります。
「静摩擦」は2つの物体を接触させ、これを相対的に滑らせ、あるいは転がらせようとするときには、これに抵抗する力が生じ、外部より加える力、あるいはモーメントが接触圧力に比し、ある一定の大きさ以上でないと相対運動を起させることはできない現象を指します。
要は「止まっているものを動かそうとするときの摩擦力」です。

対して「動摩擦」は、地面の上をすべるそりのように、二つの固体が互いにこすりながら相対運動を行う時に生じる摩擦です。
つまりは「ものが動いているときに生じる摩擦力」です。

同一条件下において、静摩擦は動摩擦を上回ります。
すなわち、動いているものを動かし続けようとする(動摩擦)よりも、止まっているものを動かそうとするとき(静摩擦)の方が、大きな力が必要なのです。

不登校であっても、家にいるとき、休んでいる状態から学校へ行こうとするときに一番大きな摩擦力が働きます。
それは家族、先生たちから見ても明らかでしょう。

では、学校に来てしまえばどうでしょうか。
止まっている状態から動くときのエネルギーは高いものですが、それよりも、いったん学校に来て居続けるエネルギーは「相対的に見て」低く済みます。
あくまでも「学校に来るエネルギー」に比べて「学校にい続けるエネルギー」が低いというだけであって、決して「学校にい続けるエネルギー」自体が小さいというわけではありません。

多くの不登校児にとって「学校にい続けること」は大変な重作業であり、学校から帰ってきた途端に横になり、翌朝までずっと寝ていたということも少なくありません。
よく「給食を食べたら帰る」という約束になっている不登校児に対して、給食後に「平気そうに見えるから」という理由で5時間目、6時間目まで引き延ばそうとするアプローチが見られます。
もちろん、すべての事例でマイナスになるとは言えません。
特に近年見られ始めた「ある種の不登校」には、枠組みとして学校にいることが大切であると示すことが支援になります(「ある種の不登校」について語ると、とっても長くなるのでここでは割愛)。

しかし、内的にきちんと登校に向けて葛藤・努力をしている事例であれば、間違いなくしない方がよい対応と言えるでしょう。
むしろ、支援者側がしっかりとその約束を覚えており、こちらから「もう帰ると言ってた時間だね」と声をかけることが、長い目で見て継続的な登校につながるでしょう(登校につながることが望ましいかどうかは事例によっての判断があるでしょうけど)。

さて、そのように考えると「学校に来たら元気なんです」という評価をする人、そしてそこから「やっぱりサボりなんですよね」と考えてしまう人をどのように捉えればよいかが見えてきます。
「あの子はサボりなんだ」と言っている人は、自分自身の状態を述べているわけです。
つまり、本当はサボりでないことは「サボらずに観察すればわかるはず」なのに、その努力を怠っているからサボりに見えてしまうということです。
精神分析学で言う投影になるでしょうか。

不登校児を理解する上で重要なのは、「なぜ学校にい続けることが重作業なのに、そのように周囲には見えないのか」です。
不登校児の多くは社会的にどう振る舞えばよいかを知っています。
いや、知っているというよりも身体化していると言った方が正確でしょう。

一般に、生理的早産で生まれてくるヒトは、他種ではなく同種から見捨てられないように振る舞うことが重要になります。
ですから、周囲の思いを汲み取り、それを自分の言動に反映させるということは大なり小なり自然に行われているものです。
ですが、あるタイプの不登校児たちは、こうした周囲の思いを汲み取ることに長けており、その汲み取った思いに合わせて自分を抑えることができてしまっているように見受けられます。

このこと自体は社会的に必要な能力ではあるのですが、周囲の思いを汲み取ることと自分を抑えることを繰り返すうちに、自分の思いを正しく認識すること、自分の内面に問い合わせる習慣が少なくなりがちです。
例えば、不登校児に親が「何が食べたい?」と問うたときの反応で多いのは以下の3つです。
  1. 「何でもいい」という。
  2. いつも同じものを要求する。
  3. 「お母さんは何がいい?」などと返答する。
これらは自分の内面に問い合わせていないという点で共通した反応と言えるでしょう。
フォーカシングではないけど、身体に問い合わせれば「いつも同じものを身体が欲している」ということは少ないはずです。

いずれにせよ、あるタイプの不登校児は、周囲の思いを汲み取り、社会的にどう振る舞えばよいかを理解しているものです。
たとえ学校にい続けることが苦しくてもそれを出さず、社会的に好ましい形で学校生活を送るよう無自覚に努力しています。

もちろん、到底そのように見えない事例も多くあります。
ワガママで、好き勝手しているように見える事例もあるでしょう。
しかし、そんな場合であっても、彼らは周囲からどのような姿を求められているかは知っています。
実は彼らも小さな場面ではいろいろ我慢していて、つまり周囲に合わせようとして、かえって苦しさを増幅させている場合も多いです。

不登校児が学校にいるあいだ「平気そうに見える」「楽しそうに見える」のは、こうした特徴が影響していると私は考えています。
1つは「動摩擦」であるために、朝の「静摩擦」の時よりはマシな苦しさであること。
もう1つは、どう振る舞うことが望ましいかを知っていること。

ですが、「平気そうに見える」「楽しそうに見える」とされていても、細やかに見てみると笑っているのは鼻から下だけだったり、どこか緊張感のある様子だったりするものです。
特に目の奥にある緊張感はなかなか消せないものです(被虐待児は凍りついた凝視(Frozen watchfulness)を示すとされていますが、それは緊張感が目の奥にあることによって生じる面があります)。

支援は、彼らが本当は大変な思いをしていること、それがどんなに平気そうにしていたとしても、彼ら自身が「私はワガママ」と言っていたとしても、相当な無理をして学校にいるのだと認識しながら関わることが前提となります。
ある程度の年齢に達していれば、こうした支援者の態度の背景にある思いを汲み取ってくれるものです(彼らが幼くても、支援の場がサポーティブなものとして伝わる)。

ただ、上記に何度も「あるタイプの不登校児」「ある種の不登校」と但し書きをしています。
ここで述べた不登校児は、わかりやすい言い方をすれば「優等生の息切れ型」という感じの不登校児を想定していますが、近年はまた違った特徴をもった不登校児が増えています。
それは、外罰的で、ルールを嫌がり、プライドが高く、恥に脆弱で、強い怒りを抱え、残虐なゲームに傾倒しやすく、保護者は子どもの言うことを信じてしまい、場合によっては家庭内暴力に発展する、といった特徴を持つ不登校児です。
こうした特徴を持つ不登校児への支援は、ここで述べたのとはまた違った方向性が必要になります。

私の印象では、こうした不登校児は社会状況を強く反映して生じてきたと考えています。
またまとめることができたら書いていこうと思います。

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小学校~大学までの教育領域で臨床活動をしています。また10年以上、臨床心理士資格試験対策の勉強会に携わってきました。
このブログでは公認心理師および臨床心理士の資格試験に向けた内容をアップしていきます。時々、コラムや読書録なども。

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