倫理観は変えようとしない

2019年06月08日土曜日

さいきんの出来事。
全員(30代前半)が資格(臨床心理士とか公認心理師とか)をもって心理支援をしている人たちの話です。

彼らの仲間が結婚するということで、彼らは一人ひとりがボードに文字を書き、それをつなげて一つのメッセージにしようという贈り物を計画しました。
そのうちの一人が「箱庭療法で使う箱庭」に「箱庭療法でクライエントが触れ、使用するフィギュア」を使って文字を描き、その写真を撮って一つの文字としたのです(しかも、職場で)。
それを共有した仲間たちは、それを「わぁ素敵」と絶賛している…というお話。

私は心理療法において、調度品が与える治療的効果を高く見積もっています。
よって、クライエントが触れるものを一般の場(結婚式か披露宴か二次会パーティーかは知りませんけど)に公開することには、かなりの違和感を覚えます。
クライエントやクライエントになる可能性のある人の、心理療法に臨む際のイメージを偏らせたくないという思いがあるので。

ただ、私は彼らに対して「それを正しなさい」「おかしいぞ」と言うつもりはないのです。
その理由は「倫理観とは変えられる類のものではない」という考えがあるためです。
せっかくなので、それについての私見を述べていきましょう。

かつて立ち小便は当たり前のように行われていましたが、現在ではそう見かけなくなりました(地域差はかなりあるでしょうが)。
私も子どもの頃していたことはありましたが、今してみろと言われても、おそらくなかなか尿が出ないのではないかと思います。
このことは、倫理観というものが生理的なものであるということと関係があります。

具体的な体験をもう一つ。
子どもが小さかった頃、一度夜中に高熱が出て、救急病院まで車を走らせたことがありました。
赤信号で停まったのですが、事態が事態でしたし(結構熱が高かった)、夜中ということもあって車が一台も周囲におりませんでした。
ですので、アクセルを踏み込んで通過した(要は信号無視した)のですが、その際、アクセルを踏み込む足がとても重かったのを覚えています。
これも「信号は守らねばならない」という倫理観が生理的な面にまで及んでいることの証左でしょう。

さて、こうした倫理観を下げる方法は古くから示されてきました。
有名なのが戦争時の訓練です。
死亡した兵士の銃を調べてみると、(確か)8割以上の兵士の銃が使用されないままだったという結果が出ました(そもそも発砲率は国に関係なく15~20%程度)。
それを踏まえ、引き金が「軽く」なるような訓練を施しました。
無機質な的ではなく人型の模型を使い、着弾すれば血に模した液体が流れるようにし、それを用いて繰り返し訓練を行いました。

結果は「良好」で、発砲されることが格段に多くなったということです(朝鮮戦争では55%、ベトナム戦争では95%に「向上」した)。
これを行ったのはアメリカだったのですが、この訓練のツケは戦争後に支払うことになりました。
帰還兵が車を運転しつつ、意味もなく、窓を開けて歩いている子どもの頭を撃つという事件が頻発したのです。
この要因として、訓練で行われた「倫理的障壁」の引き下げが挙げられていますが、これを帰還兵だけの責任に帰すのはなかなか難しいようにも感じますね。

こうした特殊な「訓練」によって倫理観を引き下げることは可能です。
しかし、高めることに関してはどうでしょうか?

その検証のため、まずは倫理的問題を起こしやすくさせる事項をざっと挙げていきます。
  • 身近に倫理観の低い人間がいる場合。環境であっても同様。
  • その問題に対して採り得る選択肢が少ないと、最も手近な手段が選ばれやすい。これは嗜癖とも通ずる。
  • 問題行動が即刻指摘されないこと。落書きをすぐ消すのは、それが次の落書きにつながるため。これは家庭内暴力において、壊された家財をただちに直すことが必要なこととも関連がある。家庭内暴力事例では、この直すという行為に伴い第三者を引き入れることが重要になる。
  • 問題行動を共にする仲間がいること。集団自殺もそういう点で同様かもしれない。自殺には倫理的問題も絡んでくるので。
  • 抑圧された攻撃衝動が強い場合。おしこめられたものが多いことによって生じる緊張感は「やってはいけないこと」の実行に伴う解放感を求める。
  • 1回やってしまったら、次の問題行動は生じやすくなる。「どうせ俺なんて」という心理もあるかもしれない。
  • 害を被る人が見えない場合。陸軍に比べて海軍・空軍がスマートに見えるのは「手を汚している感」が少ないから。特殊詐欺でも実際に被害者のところに行くのは安く雇われた一般人であることが多く、このことは詐欺グループ内に倫理的障壁によって離脱する人が出ることを防いでいるのだろう。
これらからもわかるとおり、倫理観というものはその人のもつ環境や生育歴や生活歴の中で育まれていく面が多分にあります。

世界から示された「枠組みやルール」を守り始めたころは、その意味について誰もがわかっていません。
枠組みやルールを守るのは「ダメと言われたから」「みんながやらないから」「自分がダメだと思うから」など、様々な段階の存在が指摘されています(コールバーグの理論ですね)。
いずれにせよ、長い時間をかけて「枠組みやルール」が守られ、その中で「枠組みを守っていないと気持ち悪い」という生理的状態が築かれます。

このように見てみると倫理観を変えようとするのは、なかなか困難であると言えます。
長い時間をかけて生理的なところに染みついたものが倫理観と言えるわけで。

私は「相手の倫理観の是非」については常に棚上げします。
例えば、犯罪行為等に説教しても治療的な意味がないことは、十分なくらい指摘されていることですね。
倫理観をぶつけて、相手の倫理観を変えようとする行為には意味がないと感じています。
そもそも心理療法は「クライエントを変える営み」でも「倫理観を高めようとする行為」でもありませんし、カウンセラーは一般的な価値判断からある程度「自由」であることが大切だと思っています。

倫理観については「その違いは如何ともしがたいし、どちらかが正しいというものではない」「倫理観の違いによって生じるあらゆる被害は、人災ではなく天災である」という前提で考えるようにしています。
特に犯罪にまで至らないような、小さな倫理的判断の違いについては尚更です。

雨が降ったからといって、お空に文句を言っても仕方ないですよね(別に言ってもいいけど)。
冒頭の出来事も、私にとっては「雨が降った」「ドカ雪になったなぁ」と感じますが、彼らにとっては「さわやかな風が吹く晴天の日」であるわけです。
お天気の感じ方(すなわち倫理観)の違いにあれこれ言っても仕方がないだろう…というのが私の現時点での結論です。

「倫理観とはどういう類のものなのか」から出発して、「どのような心もちでそれを受け取るのか」についての私見を述べました。
この考えに賛同しないという方もおられるでしょうが、それはそれで倫理観の違いということで。

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About Me

小学校~大学までの教育領域で臨床活動をしています。また10年以上、臨床心理士資格試験対策の勉強会に携わってきました。
このブログでは公認心理師および臨床心理士の資格試験に向けた内容をアップしていきます。時々、コラムや読書録なども。

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